井波御坊 瑞泉寺 |
瑞泉寺は、本願寺第五世綽如上人開基のお寺です。永和年間(1375年〜1379年)綽如上人は、京都の騒乱をさけて越中へお下りになり、杉谷の山中に草庵を結んで親鸞聖人の教義を弘められました。たまたま、中国から国書が朝廷へ送られてきましたが、その文字がとても難解を極め、南都北嶺の学匠を召されても理解することができませんでした。この時上人の師である聖蓮院門跡が、博学多識の綽如上人を推挙せられ、後小松天皇が勅使をもって急ぎお召しになりましたので、上人は直ちに京都へ上がられました。かくて国書の意義が明らかになり、なおその返書をしたためられて、ようやく国の体面を保つことができたのです。天皇はこれを大変に喜ばれ、なお自ら進んで宮中において上人から大無量寿経の講義を聞かれました。天皇は綽如上人の深い学問に益々感心され、その褒美として周圓上人という号を下され、また聖徳太子絵伝八軸と太子二歳の南無仏木像一体を賜りました。 |
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綽如上人開基を伝える瑞泉寺々標 |
重要文化財の山門 |
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太子堂をバックにハイポーズ |
享和元年(1801年)に京都の大工柴田新八郎が棟梁となって再建した総欅の重層伽藍つくり。明治18年の火災では左欄干下まで火が迫ったが、山門正面にある彫刻の竜が水を吹きあげて火を消したとも伝えられています。 |
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お東の荘厳様式の内陣 |
太子堂(聖徳太子像を安置する)16間四面の伽藍 |
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山門(正面から) |
勅使門 |
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本堂(本尊阿弥陀如来像を安置する)
明治18年再建間口25間・奥行23.5間の大伽藍 |
有名な井波の彫刻が施された本堂 |
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綽如上人は瑞泉寺を根拠地として教化につとめられたが、明徳4年(1393年)44歳の若さでこの地でご往生されました。その後本願寺第八世門主、蓮如上人が吉崎に坊舎を建立して後、井波の瑞泉寺と共に北陸の念仏教団の中心地として栄えました。 |
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