第3回

 「安心論題」学習会主催の聞法の集い第3回が、平成16年6月4日(金)午後1時半より浄慶寺にて開催されました。今回の御法話は、久堀先生を入れて三人です。最後は、参詣した皆さんとの御示談・座談会を行いました。その時のお話なども織り交ぜながら紹介させていただきます。

最初の御講師は、大阪教区川中北組浄向寺の西原法興先生です。

お参りは、距離の問題ではありませんね。遠くでも参りますし、近くに居ても参られない人も色々ですね。最初はしぶしぶでも、次第に縁に触れてお参りされる方が一人でも多く参って頂くとありがたいことです。

「勿体なや祖師は紙衣(かみこ)の九十年」という歌がありますが、親鸞聖人は九十年のご生涯の中でご信心中心の日暮でありました。けっして贅沢な生活をされたわけではありません。高僧というよりも、ご信心中心の一人の念仏者としてのご生涯でありました。

大学生の頃、学問の上から学者さんや研究者の人たちは、親鸞聖人のことを「しんらん」、蓮如上人のことを「れんにょ」と呼び捨てにされる人がいました。私にとっては信じられないことでありました。客観的歴史観や学問としての視点もあると思いますが、聖人のお念仏の流れをくむもの、祖師や蓮師を慕う者にとって、学問するとはいっても呼び捨てにすることはいかがなものでしょうか?

昔からも今もそして将来に渡って大切なもの、根底にあるべきものは、恭敬(くぎょう)・・・うやまい尊敬する心ではないでしょうか?「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」と『高僧和讃』にもありますね。私たちにとって、うやまい尊敬する心は大切にしていかなくてはならない心ではないでしょうか。

二人目の御講師は、奈良教区三山組報恩寺の森義教先生です。

法事のお経は何のためにあげるのでしょうか?よく尋ねられる質問ですが、歴史的なことからお話しいたしましょう。

初七日から始まり百ヶ日、一周忌・三回忌まで勤めたのは室町時代まで。それ以降江戸時代には法事を五十回忌まで勤めるようになったそうです。

それから三途の川の話もよく出てきます。三途の川のこちらの岸に「衣領樹(えりょうじゅ)」という木が一本あります。その木の下では、二人のお爺さんとお婆さんが死者を待ちうけています。冥途の旅人から衣服をはぎとることが役目であります。そして、衣服をその「衣領樹」の枝にかけます。枝のたわみ方によって、冥土の旅人の渡る場所がきまります。この木は衣の持ち主が生前に犯した罪の軽重によってしなる度合いも変わるという特殊な木なのだそうです。善人は橋を渡ることができます。小悪人は浅瀬を渡らねばなりません。大悪人は流れの速い深いところを渡らされます。その渡り賃が六文銭なのだそうです。

そして、いよいよ来世の行き先を裁く裁判が始まります。三十五日目には有名な閻魔大王の登場です。閻魔様の前に置かれた浄玻璃(じょうはり)の鏡に自分の善悪がすべて映しだされます。四十九日の最後の審判では、泰山王が出てきます。最後の審判のある四十九日までに少しでも亡き人がいいところへ行けるようにと遺族達が追善供養をするのだそうです。

初七日から五十回忌まで仏事・法事を勤めますが、浄土真宗では、私たちの勤めるお経に追善供養の意味はありません。親鸞聖人のお心は、仏徳讃嘆ためのお経であります。それでは何故追善供養にならないのでしょうか。それは私たちの勤めるお経が追善供養にならないのは、私のこころに真(まこと)がないからです。真のこころは私の側にあるのではなく、仏様の側にあるのです。ですからお経を私たちの都合や思い入れによってあげたり、亡き人へ振り向けようと思っても末通るものではありません。

それでは何故お経さまを勤めるのか?それは阿弥陀如来様のお徳を讃嘆させていただく為です。お経を自分の耳で聞き、自分の為に戴いていくこと。救いの主体は、阿弥陀如来様であり、私の力のひとつも必要ありません。如来様の一人働きであり、私が亡き人を救う訳ではありません。

如来さまの「まかせよ救う」という願いにこたえていくこと。そのお礼の言葉が「南無阿弥陀仏 ナムアミダブツ」・・・であります。「信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」と御文章にあります。私たちは、阿弥陀様のお救いにすべてをまかせること。お念仏は感謝のお念仏です。それを親鸞聖人は、信心正因・称名報恩と言ったのであります。

最後に久堀勝敏先生がお話をされました。

「のたまはく 朝夕 『正信偈』・『和讃』にて 念仏もうすは 往生のたねに なるべきか なるまじきかと、 おのおの坊主に御たづねあり。 みなもうされけるは 往生のたねに なるべしと もうしたる人もあり、 往生のたねには なるまじきという人も ありけるとき、 仰せに、 いづれもわろし、 『正信偈』・『和讃』は、 衆生の弥陀如来を一念にたのみまいらせて、 後生たすかりもうせとの ことわりをあそばされたり。 よくきゝわけて信をとりて、 ありがたやありがたやと 聖人の御前にてよろこぶことなりと、 くれぐれ仰せ候なり」と。『蓮如上人御一代記聞書』32より

蓮如上人は、お尋ねなられました。「念仏は往生の種になるのか?それとも往生の種にならないのか?」お坊さんの中には「往生の種になります。」と答えた人もありましたが、「往生の種になりません。」と答えたお坊さんもいました。皆さんはどう答えますか?それに対して蓮如上人は、「いづれも悪ろし!」と言われたそうです。

正信偈・和讃は私のたすかる道理を述べたものであります。その正信偈は親鸞聖人の喜びの表白なのです。また信心の告白であります。念仏が往生の種になるか否かを問題にするのは自力の心が雑ざっているからです。それは如来様の本願を疑っているからなのです。

お経を読むのもお念仏申すのも「誰のため・何のため」と為をあちらにつけると自力になってしまいます。為は自分の方につけなければなりません。あちらにつけると毒素が出てしまいます。「念仏を称えるのも、私が人のためにしてやっているのだ。」と考えると、念仏を自分の功績にしてしまうことになります。お念仏は、自分の自身ために聞いてゆかねばならないものであります。ですから、お経をあげるのも、お念仏を申すことも自分の往生の種になると考えることは大いに問題になることです。

蓮如上人はありがたいですね。「当流は弥陀をたのむが一流なり」と仰せられています。「たのむたすけたまえ」は、仏様にお願いしようと先行すると祈願になってしまいます。たすけたまえは、後につけること。相手の要請を承諾して受け入れる信順許諾(しんじゅんこたく)の意味があるのです。つまり、「必ず救う」という阿弥陀如来の本願を受け入れて、「お心のままにおたすけになってください」と完全にまかせ・信頼することなのです。私のたすかる法が成就して名号(南無阿弥陀仏)となって、今まさに私に届けられているのです。

お経をいただくとは、正受正法(正しい法をお聞かせ頂くこと)・仏恩報謝(仏様のご恩に感謝すること)・仏徳讃嘆(仏様のお徳をほめること)の三つの意味があります。

仏法を今聞かずしていつ聞くのでしょうか?お坊さんも門徒さんも「チョロチョロ」参ったり、聴聞してる位ではあきません。仏法は若い時に聞いておかなければなりません。これからも御座(御法座)をたくさん立てて、もっともっと真剣に聴聞いたしましょうね。

「安心論題学習会」からの参加者は九人です。お忙しい法務をさいての御来岐ご苦労様です。 楽しいお話に知らず知らずのうちに引き込まれて、楽しい聞法のひと時を過ごしました。

帰宅前に本堂の前で記念写真を撮りました。西原さん藤本さんは早く出ましたので入っておりません。残念!

門信徒の皆様もお参り有り難うございました。

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