最後に久堀勝敏先生がお話をされました。
「のたまはく 朝夕 『正信偈』・『和讃』にて 念仏もうすは 往生のたねに なるべきか なるまじきかと、 おのおの坊主に御たづねあり。 みなもうされけるは 往生のたねに なるべしと もうしたる人もあり、 往生のたねには なるまじきという人も ありけるとき、 仰せに、 いづれもわろし、 『正信偈』・『和讃』は、 衆生の弥陀如来を一念にたのみまいらせて、 後生たすかりもうせとの ことわりをあそばされたり。 よくきゝわけて信をとりて、 ありがたやありがたやと 聖人の御前にてよろこぶことなりと、 くれぐれ仰せ候なり」と。『蓮如上人御一代記聞書』32より
蓮如上人は、お尋ねなられました。「念仏は往生の種になるのか?それとも往生の種にならないのか?」お坊さんの中には「往生の種になります。」と答えた人もありましたが、「往生の種になりません。」と答えたお坊さんもいました。皆さんはどう答えますか?それに対して蓮如上人は、「いづれも悪ろし!」と言われたそうです。
正信偈・和讃は私のたすかる道理を述べたものであります。その正信偈は親鸞聖人の喜びの表白なのです。また信心の告白であります。念仏が往生の種になるか否かを問題にするのは自力の心が雑ざっているからです。それは如来様の本願を疑っているからなのです。
お経を読むのもお念仏申すのも「誰のため・何のため」と為をあちらにつけると自力になってしまいます。為は自分の方につけなければなりません。あちらにつけると毒素が出てしまいます。「念仏を称えるのも、私が人のためにしてやっているのだ。」と考えると、念仏を自分の功績にしてしまうことになります。お念仏は、自分の自身ために聞いてゆかねばならないものであります。ですから、お経をあげるのも、お念仏を申すことも自分の往生の種になると考えることは大いに問題になることです。
蓮如上人はありがたいですね。「当流は弥陀をたのむが一流なり」と仰せられています。「たのむたすけたまえ」は、仏様にお願いしようと先行すると祈願になってしまいます。たすけたまえは、後につけること。相手の要請を承諾して受け入れる信順許諾(しんじゅんこたく)の意味があるのです。つまり、「必ず救う」という阿弥陀如来の本願を受け入れて、「お心のままにおたすけになってください」と完全にまかせ・信頼することなのです。私のたすかる法が成就して名号(南無阿弥陀仏)となって、今まさに私に届けられているのです。
お経をいただくとは、正受正法(正しい法をお聞かせ頂くこと)・仏恩報謝(仏様のご恩に感謝すること)・仏徳讃嘆(仏様のお徳をほめること)の三つの意味があります。
仏法を今聞かずしていつ聞くのでしょうか?お坊さんも門徒さんも「チョロチョロ」参ったり、聴聞してる位ではあきません。仏法は若い時に聞いておかなければなりません。これからも御座(御法座)をたくさん立てて、もっともっと真剣に聴聞いたしましょうね。
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