私の曽祖父故七里円長師(長崎県福江市上大津町善教寺)が長崎刑務所の教誨師(きょうかいし)をしていた頃の法話を紹介いたします。長らく叔父から預かっていた文章で、初めてWeb化するものであります。明治時代の実話であり、当時の文体で書かれている為少し読みづらいかもしれませんが、お許しください。

        

飯粒(めしつぶ)仏像(ぶつぞう)

 

 私は、壮年の頃、教誨師(きょうかいし)として長崎刑務所に勤務したことがある。死刑囚にも教誨し、その死刑執行の時は必ず立ち会ったが、総て獲信の人となり、念仏諸共従容として刑を受けられた。その中の一人 Aさんは特に最も有り難い人であった。彼は福岡県に生まれた、強盗・殺人・放火・紙幣偽造などの大罪を犯し、明治二十七年・長崎刑務所において死刑になったのである。

 これより先、彼に死刑の判決にあって後、毎日欠かさず私は彼の独居室を訪ねた。初めの間は、私が話しかけても天井を眺めて空うそぶき、傲慢不遜(ごうまんふそん)の態度であったが、或日のこと、彼は私の顔を見るや、急いで正座して容姿を整えて丁寧な口調で、「たびたびお訪ねいただいたが、ご無礼ばかりであいすいません。なにとぞお許しを願います。先日来、つらつらわが身の上を考えました。殊に昨夜は夜更けて、あたりは寂莫(じゃくばく)となり、月は西に傾いて独居室の窓に冴え込んでくる。その時わが胸の中に往来するものは死刑であります。死・・死・・死・・これを考え続けてついに一睡もできないまま夜は明けてしまいました。死を思いますと何となく心細い。これはどうしたことでしょう。」と尋ねたのである。私は今や宿善到来(しゅくぜんとうらい)と心ひそかに喜び、次のように教誨を試みた。「いかなる大豪傑といえども死を思う時は、心細く感ずるものである。世界的大豪傑といわれたナポレオンも、戦いに敗れセントヘレナ島に監禁の身となり、胃病・リューマチから胃癌となり、日毎に切迫する己の死を思う時心細くなった。そこで祭壇を設け救いを神に祈りながら絶命したという。ナポレオンさえ心細く感じたのだから、お前もやはり心細くなるのは当然であろう。仏様は、五怖畏(ごふい)ということを説かれている。五怖畏とは、一つに不活畏(ふかつい)、財産を貯えていながら生活することを心配し畏れること。二つに死畏(しい)、命を惜しんで死にたくないと畏れること。三つに悪名畏(あくない)常に悪行をしながらそれを包みかくし、それが他人に知られはしないかと畏(おそ)れること。四つに悪道畏(あくどうい)、常に罪悪を犯し、その報いを受けはしないかと畏れること。五つに大衆威徳畏(たいしゅういとくい)、大衆の中で発言したことが、誤解を生じないかと心にかかり畏れること。この五怖畏(ごふい)のことは華厳経(第23巻)にあり、五怖畏(ごふい)を無くするのはいつであるかというと、華厳経に『歓喜地(かんぎじ)を得、即ち五怖畏(ごふい)を過ぐ。』とある。仏果に到まで五十二の位があり、その四十一位の歓喜地にならなければ、五怖畏(ごふい)は無くならないと説かれている。今お前の心細いという死は、五怖畏(ごふい)中で死畏(しい)で、これを解脱するには絶対他力の弥陀の本願念仏の信仰に入るほかない。」とその道を説いた。彼は少しは領解(りょうげ)したかのごとく微笑みを漏らしていたが、「何か信仰に関する本を貸して頂けませんか。」というので、私は非常に嬉しくてそのことを約束し、直ちに所長の山室元吉氏に彼の心気一転したことを報告し、仏教書の貸与の許可を申し出た。翌日、早速に貸与するや、彼は熱心に読書するようになり、不審な点は私の巡回教誨の時を待ち受けて質問することを常とし、取り替え多くの仏教書を閲覧(えつらん)しては質問を繰り返すので、私もその説明に大いに期待をもって努めたことである。

 或日、彼は親鸞聖人の正信偈・和讃と蓮如上人の五帖一部の御文章とを手元に置き、他の書物は全部不要と言って返納し、それ以後は唯弥陀如来の本願絶対他力の妙味な愛楽するようになった。しかし彼は嘆息を漏らすことがあった。それは、如来様は「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)なりとも弥陀如来は救いましますべし」とは申すものの、私のような重罪犯人が助かるとは余りにも勿体ない、と嘆くのである。その時いつも私は、「願力無窮(がんりきむぐう)ニマシマセバ 罪悪深重モオモカラズ 仏智無辺ニマシマセバ 散乱放逸(さんらんほういつ)モステラレズ」の和讃「善人ナオモテ往生ヲトグイワンヤ悪人ヲヤ」の歎異抄などを拠り所として、灯は闇を照らすため、薬は病を治すため、弥陀の本願は罪悪深重の者のためなることを力説した。それ以降彼は「機歎き」の心は全く止み、唯己の罪悪の重いことに畏れいると共に、弥陀大悲の広大なることに感泣し、称名念仏絶え間なかった。そしてこれまでの三度の食事に不足小言を並べ刑務官を困らせいた彼が、今は米混じりの麦飯に大根の沢庵漬を「勿体ない有り難い。」と押し頂き、合掌念仏して食べるその殊勝さに、所内の誰もが感心させられたことである。

 更に或日、彼は私に「御文章に『一ニハ宿善(しゅくぜん)、二ニハ善知識(ぜんじしき)、三ニハ光明、四ニハ信心、五ニハ名号。コノ五重ノ義成就セズバ往生ハカナフベカラザルナリ』とあるが、この重罪犯人にどうしてこの五重の義が得られましょうか。そこが不安な気がします。」という。それで私は「お前はすでにその五つが成就しているではないか。無量寿経に『善本無クンバ此ノ経ヲ聞クコトヲ得ズ』と説かれ、古歌に『さきの世にいかなる種子(しゅうじ)を蒔きしけん とおとき法に逢える嬉しさ』とあるように、お前は『聞法の人』となったことが宿善であり、しかもこの宿善というのも、全く阿弥陀如来のお手回しと心得て、宿善有り難しと感謝しなければならない。次に法を聞くには聞かせる者つまり善知識が必要で、無量寿経に『善知識ニ遇イ法ヲ聞イテ能ク行ズル』と説かれ、この刑務所では教戒師が善知識である。又その聞いたみ法は、如来の光明のお照らしによって成育するもので、観無量寿経に『光明遍ク十方世界ヲ照ラシ念仏ノ衆生ヲ摂取シテ捨テズ』と説かれている。又、如来のお救いによってお浄土に参らせて頂くと安心したのが信心であり、そのお救いにあずかったのは南無阿弥陀仏の名号のお力である。そしてそのお救いの嬉しさ有り難さの歓喜の念(おも)いは、口に顕れて如来の名号を称えて感謝の意を表すのであり、無量寿経に『其ノ名号ヲ聞イテ信心歓喜シ乃至一念セン』とあるのは、そのことである。因ってお前にはすでに五重の義は成就しており、別段一つ一つ骨折って求めるものでなく、他力信心の者には自然に成就するのである。」と説明したところ、彼は心底より領解したようであった。

 或日、私が所長室へ立ち寄ったところ、小さい仏像を机上に置いて看守長と対談中だった。話によると、一寸八分阿弥陀如来の立像で、彼が食べる麦と米のご飯の中より米粒だけを選び出して、指先でこねて作り上げたものという。それには赤青色の色彩まで施しているが、それは貸与の書物の色表紙に水を浸して彩ったもので、能く相好円満(そうごうえんまん)にできており、さすがに紙幣偽造するだけの手腕だと感じた。規定外の物として取り上げてきたが、どうしたものかと対話中とのこと。そこで私は所長に「この仏像は、彼が遊戯的に作ったものではなく、信仰の上より恭敬礼拝の対象としたもので、万一この中に釘を隠し逃走事故の恐れあるならば取り上げるべきだが、そんなことは決して無いと信ずるから、彼に返して欲しい。」と申しますと、所長は「同感です。差し支えありません。」と快諾され、仏像は直ちに返され、彼は心より喜び感極まって泣いた。それ以後は、公然と独居室内に安置し、日に数回その仏像に向かい正信偈・御文章を拝読し、称名念仏しつつ唯死刑執行の日を待っているという有様で、受刑の日の白衣と念珠を彼の所持金より購入方を願い出たので、それぞれ刑務所において用意しておいた。

 死刑執行の日、早朝に連絡を受け、急いで出所し白洲へ行ってみると、用意しておいた白衣を着て手錠をはめた手に念珠を掛け端座合掌(たんざがっしょう)していた。私の顔を見るや喜色満面(きしょくまんめん)で黙って頭を下げた。私が彼に「今日はいよいよ死ぬんだね。」というと、彼はニッコリして「教誨師さま、死ぬのではなく生まれるんです。」という。「なる程、お浄土へ生まれる目出たい日、有り難いことだね。」というと、「おかげで今日はお浄土へ参らせていただきます。大変御恩を受けながら何のお礼もできません。いずれお浄土の阿弥陀如来様のお膝元でお目にかかりましょう。あのご飯粒の如来様は、あなたのお手元にご保存願います。」と言い、私が「確かにいただくが、ご飯粒のことゆえ虫が入って長くは保存出来ないだろうね。」というと、彼は「一念こめて製作した如来様に、虫など決して決して・・・」と言って、唯念仏絶え間無かった。

 やがて死刑執行の時刻となり、刑務官に付き添われて刑場に至る。そこで所長から死刑執行の旨を申し渡される。その時彼は、荘重な言葉で「甚だ申し兼ねますが、今生のお暇乞いに正信偈を拝読したくございます。なお、拙(つたな)い辞世の歌を何とぞお許し下さいますよう、お願い申し上げます。」と言う。所長は快くこれを許可した。それで彼は、音声朗々と正信偈を読経し終り、次の和歌二首を詠んだ。

     大谷に清く湛(たた)えし法の水 七里流れて大淵に入る

     大淵の濁れる水のその中に 清く宿れる弥陀の月影

詠み終わった彼は、顔面を白布で覆(おお)われ、絞首台に登らされる。彼は泰然自若(たいぜんじじゃく)、唯称名念仏するのみであった。やがて縄は彼の首にかけられ、踏み台が引き落とされたのである。自業自得とはいえ、その惨(さん)たる様子を見て、私は思わず目を掩(おお)うたのであった。実にはかない彼の一生であったが、彼は大槃涅槃(だいほつねはん)を証(さと)って永久無限の妙薬を得たのであろう。

 彼よりいただいた「飯粒の仏像」は、当山善教寺の秘仏として今日まで大切に保存されて来たのである。そして、彼が言った通り、虫食いもなく、当時の姿のまま今日に至っている。実に弥陀の本願が悪人正機(悪人目当ての救い)ということを、能()く現実に見せて教えてくれたものと、有り難く思うものである。

合掌

 

顕彰碑より

 七里円長老師(1864年〜1955年)は、元治元年11月5日福江市上大津善教寺に誕生、6歳の時父貞壽上人を失い、母豊子坊守に養育せられました。幼少より聡明良く学を好み、長じて佐賀県塩田にて宗学を修め、後京都に上がりて浄土真宗本願寺派立普通教校並びに文学寮等に世間学・仏教を修め、更に東京に出て神田の法律学校並びに慶應義塾大学に泰西の学を修め、明治28年5月30日当寺第14世の住職とならる。

 在職中は年中恒例の法要は勿論、少年・青年会・婦人会・老年会・日曜学校を創設して門信徒の教化に努め、この間本堂・庫裡・書院・山門を改築隠退の後も岐宿町に善教寺説教所を建てて円長寺の基礎を作り、往生の時まで東奔西走、前後60年に亙りて教化に努めらる。尚老師は、社会教育免因保護事業等に盡(つく)され屢々(しばしば)表彰をうけらる。

 又宗門に在りては、宗議会の議員として宗政に参与し、執行として宗門最高の行政庁に執務せらる。特に昭和22年4月1日門主猊下(もんしゅげいか)名誉侍真補(めいよたいしんほ)の称号を授けらる。昭和30年4月14日91歳を以って遷化せらるるや、門主猊下より万徳院の御染筆を賜り、葬儀には御代香を差向けらる。我等門信徒、永く老師の恩徳を偲び御功績を讃えるため、御一生の概略を記述して有縁の人々に御伝え致します。                           

                                             昭和30年11月5日 善教寺門信徒一同建立

善教寺境内にある顕彰碑

七里円長老師塑像

           

 

 

 

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