蓮如上人の御跡を慕いて(その1)

 

 


 




 

第三回門徒会旅行 蓮如上人の御跡を訪ねて

 

今回の門徒会旅行は、6月20日・21日と石川県・富山県の蓮如上人の御旧跡を訪ねる旅行に出かけました。梅雨の時期にもかかわらず、晴天に恵まれた門徒会旅行でした。

行徳寺開基赤尾の道宗

合掌の里五箇山の峡谷深いところに今なお光を放っているのは妙好人「赤尾の道宗」であります。道宗は今から五百年ほど前、赤尾に生まれ住んでいました。奇縁により蓮如上人の弟子となり数多いお弟子のうち道西・道徳と共に並び賞されています。ことに道宗は上人の感化が深かったので今日も多くの人々の心をはげまし、あたためています。

道宗は、もと平家の落人の末裔、角渕刑部左衛門の子で、俗称を弥七といい、四才にして母に死別し、十三才のとき父に別れ、その後叔父の浄徳のもとで養育されました。ある日小鳥が巣をつくり雛を育てているのを見て小鳥でさえ親鳥にまもられているのに、自分にはなぜ親がいないのであろうかと悲しみ、子ども心にも親を慕う切ない思いに明け暮れました。そこで叔父は筑紫の五百羅漢(大分県の耶馬溪にある五百羅漢)の話を弥七に語りました。「五百羅漢を順々に拝んで歩いていると微笑んで下さる羅漢さまが親の顔そっくりだ」と。彼は是非参ろうと決心して旅立ちました。越前の麻生津まで来たとき日が暮れて、道端に腰をおろし仮寝していました。すると夢うつつとなく、一人の旅の僧があらわれ、「筑紫へ参って親の似顔のほとけに逢うても喜びもつかのま、また別れの悲しみが深まるだろう。それより京都の蓮如上人に逢えば別れることのない親に逢えるだろう」と告げられました。あなたは誰ですかと念の為にたづねると信州更科の僧、蓮如と近づきだといって夢がさめました。弥七は、筑紫参詣を変更して京の蓮如上人を訪ねました。三日三夜座をかえず上人の教えを聴聞しました。その真剣な態度が上人の御目にとまり、両親なきことを上人聞召されて、おそばにとどまり深く仏法に帰依するようになったということであります。

五箇山・赤尾 角淵山行徳寺(富山県)

山門前での記念撮影(行徳寺)

本堂

合掌つくりの庫裏

わかり易く親切にお話される坊守さま

四十八本の薪の上に寝る道宗

蓮如上人坐像

棟方志功先生の版画

行徳寺山門

境内にある庭園

蓮如上人のもとで聴聞に年月を重ねた道宗は赤尾に帰って、一日の嗜みと共に一月の嗜みとして当時蓮如上人の居られる井波の瑞泉寺へ参詣していました。ある元旦の晨朝(朝のお勤め)にお詣りするため峠の峯まで登ったがその年、雪深く先へ進めずとうてい朝の勤行に間に合わぬと思い、「懐中仏」をとりだし念仏していました。突然雪の中に船を曳いたような道がひらけており、それをたよりに無事井波へ着くことができました。まちかねていた上人は鐘と太鼓を同時にならし、勤行を始められました。以来井波の瑞泉寺の元旦のお参りには、鐘と太鼓を同時に打ち鳴らすようになったということでありました。

年に一度の嗜みとして赤尾の山奥から京の本願寺へ毎年参詣されました。或るとき道宗の妻は上人から何か心得やすきお言葉を戴いてほしいと依頼しました。京から遥々帰って来て草履をも脱がず妻に出して見せたのは「南無阿弥陀仏」の六字の名号でした。妻は見るなり意がはずれてしまいました。もっと何か細かく書きつけたものが欲しかったのです。道宗は妻の意を知るなり直ちに脱ぎかけた草履の紐を結び直して即座に今帰ってきた道を再び京へ引き返し、ご消息をいただいて来ました。

「後生の一大事命のあらんかぎり油断あるまじきこと」「心中を引き破る」「身を責め、心をせめて」と、わが身にわが心に怠慢しないよう、僑慢にならないよう、御仏のご恩を忘れないように夜は四十八願になぞらえて四十八本の割木の上に寝たということでした。棟方志功画伯が行徳寺を訪れ、道宗行臥の木像を拝して彼の念仏者なり・人となりに感銘して、道宗行臥の版画をつくられました。それが上記の版画であります。その他蓮如上人・道宗にまつわる宝物が、境内にある資料館にたくさん収められていました。

 

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