蓮如上人の御跡を慕いて(その3)

 

 

 


加賀二俣 松扉山 本泉寺

 二俣は金沢の東部、医王山の美しい景観に抱かれた山峡の集落です。川のせせらぎは今もなお五百有余年の尊い念仏の歴史を伝え、紙すく乙女の清楚な歌声をも織り合わせて、朝夕たゆみなくそのさわやかな音をたたえています。本泉寺は富山県との県境も近く、昔から尾山から二俣を経て砺波の里にぬける道が、加賀・越中を結ぶ最短通路であったと言われ、この周辺に蓮如上人布教の足跡が数多く残されています。二俣本泉寺は、特に井波の瑞泉寺や越前吉崎御坊と共に、加賀における真宗興隆の基盤を成した寺院であります。

 明徳元年(1390年)本願寺第五世綽如上人が越中砺波まで歩みを進め、井波の地に瑞泉寺を創建したが間もなく入滅されました。その五十年後綽如上人の意志を継ぐべく井波に足を運んだのが、蓮如上人の叔父にあたる如浄法印でした。しかし師は間もなく井波の寺を離れて、新しく二俣の地に本泉寺を草創しました。その頃二俣にはすでに亡き綽如上人が折々憩った草庵があり、ここに如浄師がご本尊を安置して、念仏の教化に当たられる因縁が熟していたのでありましょう。

本泉寺山門

山門前にて記念撮影

古木

本泉寺本堂

蓮如上人御造作の庭

上人お手植えの梅(二代目)

蓮如上人お手植えのヒバの木が大型台風19号で倒れ、その材木を使って彫られた蓮師像

お東の様式の内陣

 喜吉二年(1442年)の春、今から五百六十年前にさかのぼる室町時代如浄師は、三十一歳でありました。このように蓮如上人以前にすでに綽如・如浄の二師が、加賀・越中の草を分け教化に身を挺した行跡は偉大であり、本泉寺はその意味でも大変重要な位置をしめたものと思われます。それ故に蓮如上人が京都から北陸路を下るにあたっても、二俣の寺に深い慕情を寄せられた事は言うまでもありません。宝徳年間三十五歳の時初めて二俣を訪れた上人は、しばらく叔父如浄師と起居をともにして、寺運の興隆に力を尽くしました。そして叔父もまた蓮如上人対しては親に代わる愛情を傾けたのであって、特に注意すべき事は蓮如上人に本願寺第八世を継がせたのは、この如浄師であったことです。即ち父存如上人が示寂した時、その内室は蓮如上人の継母であったので、蓮如上人を避けて実子の応玄を立てて本願寺第八世を継がせようと企てたのでしたが、如浄師は兄存如上人の遺命を主張して、蓮如上人を立てたのでした。もしこの二俣の如浄師がいなければ、その後の浄土真宗の興隆もなかったことでしょう。 如浄師は本泉寺壮健後十八年間二俣に居住して教化に活躍されましたが、寛正元年(1460年)正月二十六日惜しくも四十九歳で示寂しました。内室は同じく綽如上人の孫であり時に三十三歳でした。直ちに剃髪され、法名を勝如尼といいました。

蓮如上人の衣

蓮如上人の衣

蓮如上人の手鏡

お忙しいのにもかかわらず、ユーモアを交えて気さくにお話をしてくださった前住職さん

二連珠

蓮如上人真筆つぶら児の六字名号

蓮如上人ご愛用の品々

蓮如上人自画像

文明三年(1471年)七月すでに本願寺第八世を継承した蓮如上人五十七歳にして再び北陸路を下るや、先ず二俣を訪れ、引き続き吉崎に坊舎を建てて広く加賀一円を教化されたので、真宗興隆の時機は日々に熟して、遠く出羽・奥州からも聞法の人々が来集したと伝えられます。しかし悲しい事に、二俣の叔父如浄師はすでに十一年前にこの世を去っていました。久しぶりに懐かしい二俣の本泉寺を訪れ、勝如尼やその愛娘と会うにつけても、亡き叔父の恩恵を感じその面影をしのんで感慨無量であった上人は、自らの次男蓮乗に本泉寺第二代継がせ、更にまた後には第七男蓮悟を蓮乗の養子として第三代を継がせたのでした。

 幼くして母に生別してこのかた、両親の愛情にも恵まれなかった蓮如上人は、叔父の住める二俣をあたかも故郷のように懐かしい土地として大切に思っていたことでしょう。私たちはその庭園の遺跡に立ち、またその遺品・筆跡を拝見するにつけ、薄幸の生涯を通して念仏弘興に身を挺された蓮如上人、そしてまた、綽如上人・如浄二師の行跡に深い感謝を捧げずにはおれません。

※門徒会旅行のページを作成するにあたり、参拝したお寺のパンフ・しおり等参照させて頂きました。

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