歴史散策(その1)          郷土の歴史(岐阜市長森)を散策してみましょう。

 

 


  



 

 

浄慶寺の沿革

 当山浄慶寺 は、もとは天台宗の寺院でしたが、文明十八年(1486年)五月本願寺第八世蓮如上人(1415年4月4日〜1499年5月5日)に深く帰依した、上人直弟子である正専坊開基のお寺と伝えられております 。天台宗の寺院として創建された歴史は、今となってはわかりませんが、宗祖親鸞聖人の教えを蓮如上人は、広く民衆にわかるように御布教され ました。「いかなるものをも救う本願念仏の教え」に正専坊は、歓喜帰依し、浄土真宗に転派しました。以降正專庵と称され、本願寺第八世蓮如上人筆の六字名号二幅 拝領し、文亀元年(1501年)三月本願寺第九世實如上人より真筆の六字名号を一幅を賜り、第 三世 釈正專(釈教専)の時、元和七年(1621年)九月四日代十二世准如上人(1592年〜1629年)より木仏・寺号を賜わり 、浄慶寺と号するようになりました(「諸々記」小林文書による)。浄慶寺は中山道に面し、戦国時代には、尾張清洲城の織田信秀と美濃斎藤道三との合戦、織田信秀嫡男織田信長と斎藤義龍・龍興との合戦、NHK大河ドラマで放映されている『徳川葵三代』でも話に出てきた天下分け目関ケ原合戦の前哨戦‐米野の戦い、江戸時代には朝鮮通信使節団・皇女和宮下向・幕末の騒乱など、数多くの歴史上の出来事を 浄土真宗に転派以来においても五百数十年に渡り見つめてきました。尾張国守護織田信長と美濃国守護斎藤氏との合戦では、何度となく長森は焼き払われ、浄慶寺もその堂宇を消失したものと思われます。寺宝に蓮如上人直筆六字名号二幅・正信偈文二幅、實如上人直筆六字名号一幅などがあ ります。 浄土真宗に改宗して後の歴代の住職は以下のとうりです。 

 

 
     
 
 
第一世 開基 正 第九世 釈泰住
第二世 釈正 第十世 釈住導
第三世

釈教専又は、釈正とも云われている。

第十一世 釈住行
第四世 釈了玄 第十二世 釈龍天
第五世 釈円智 第十三世 釈貞利
第六世 釈長玄 第十四世 釈道弘
第七世 釈智円    
第八世 釈円泰    
 
 

江戸時代の中山道に面した長森切通の様子

中山道分延絵図に見られる江戸時代の切通村付近の様子

同上絵図浄慶寺拡大部分

 

 

浄慶寺古文書に見られる境内風景。赤色で塗られた部分 左面は墓地。元加納藩主安藤対馬之守は、陸奥国磐城平(いわきたいら)藩に移されました。その安藤家は、旧領を復帰させられたとはいえ奥州と美濃は離れていたので、支配に配慮して陣屋を厚見郡切通村に設け、郡奉行・代官・与力・同心など二十二人を詰めさせ、地元村役人に強い権限を持たせて地方を支配させました。左側の赤い部分の南側には、江戸時代には高札(現若井薬局前面)が掲げられ、浄慶寺歴代住職は、農民間の土地・水争いの調停を務めたと伝わっております。

 

   

   
 

今も残る江戸時代のお墓。

磐城平藩美濃領厚見郡切通陣屋要図


長森切通略史

 切通は境川北岸に位置して、岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落としていたことに由来していると言われます。文治元年(1185年)渋谷金王丸が長森の庄の地頭に任ぜられて、この地に長森城を築きました。その後歴史は下り、土岐頼貞は、元弘三年(1333年)足利尊氏に呼応して室町幕府確立に軍功をあげました。頼貞の母は鎌倉幕府執権北条貞時の娘で、頼貞は機を見るに敏であり、尊氏が室町幕府を開くや美濃国守護の地位を確立しました。切通村には長森城址があり、暦応二年(1339年)土岐守護家初代頼貞の子頼遠が家督を継ぎ、土岐郡大富(現土岐市内)から厚見郡長森城に移ってきました。これが、岐阜の地が美濃国の中心になる初めであります。しかし、頼遠は都(京都)で皇族への不敬の罪で処刑されました。その後、土岐氏は府城を長森城から革手城(岐阜市川手)、そして戦国期に稲葉山城(金華山)へと移してゆきました。

その後、美濃国守護の実権は、土岐頼芸〜斎藤道三〜斎藤義龍・龍興へと移り、織田信長が美濃を手中に収め、井之口を岐阜に改めました。岐阜城を拠点に天下布武の号令をかけ、「美濃を征する者は天下を征する」の言葉通りに天下人となって行きました。その後皆様ご存知のとうり、豊臣秀吉・徳川家康と歴史上の実権は移って行きました。

切通は、古くから東西交流の要路にあたり江戸時代になって五街道が整備されるようになると、手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋が立ち並び、往来の旅人で賑わったことでしょう。また浄慶寺付近は上市場と呼ばれ、お寺の山号にもなっております。土地の長老たちは、誇りをもって「長森銀座」ともよんでいました。

 

追記:長森城について

暦応二年(延元四年1339)に誅せられた美濃国守土岐頼遠が土岐郡大富より厚見郡切通の長森城に移った時には、木曾川は城の南を西北に向かって流れ、切通西、細畑のあたりから急に南に向かい、のちに構築された革手城の東を南に笠松の方向へ流れていた。

 長森城は美濃国守土岐頼貞の次男土岐頼遠の創築に始まる。それ以前に、源義朝の臣である渋谷金王丸(こんのうまる)が文治年間(1185-90)に住んでいたといわれるが、明確にし難い。

 建武四年(延元二、1337)、南朝方の京都回復策の一環として、越前では金崎城に拠る新田義貞が足利軍の主力と攻防戦を展開していた。後醍醐天皇は吉野に潜幸後、形勢逆転のため陸奥の北畠顕家に対して京都に上ることを促した。顕家は義良親王を報じて鎌倉を陥れ、暦応元年(延元三年)、鎌倉から京都に向かった。これを追って桃井播磨守直常が墨俣に着くと、土岐頼遠は、七百余騎を率いてこれに加わった。このおり足利方は、戦場は近江の勢多(瀬田)になると予想し、その時に顕家の軍を挟撃することに決定した。頼遠はこれに対し、敵を見て戦わないのは勇気がないといって、大垣の青野ヶ原で顕家の軍に戦いをいどんだ。これが青野合戦で、七百余騎の頼遠と直常の軍は六万余騎の顕家の軍と戦ったが、一時間ほどで三百騎が討たれてしまった。残る七百騎は、二万余騎を率いる春日少将(顕信)の軍に駆け入って戦ったものの二〇騎ほどに激減し、頼遠は左の目の下から口脇まで斬られて、長森城に退いた。

 その後、頼遠は康永元年(公国、1342)、光厳上皇に不敬を働き誅殺された。頼遠の刑死のあと土岐氏の惣領となって美濃・尾張・伊勢三か国の守護になったのは、兄頼清の子頼康である。頼康は長森城から革手城に移った。革手城の築城は正平年間(1346-70)である。

元弘・建武年間(1331-38)の美濃は中央の政治の影響を受け、南朝側の根尾城に拠る堀口氏とそれに対する土岐氏の戦いが行われた。

 文和元年(正平七、1352)新田義興を中心として南朝方京都に迫ると、頼康も近江に転戦した。この間、美濃では長森城が南朝の軍勢に襲われた。

 頼康が革手城に移ってのち、守護康行の時に、頼康の弟である直氏の子直詮が長森城主となった。応永六年(1399)、大内義弘が起こした応永の乱に、呼応した美濃国守頼益の従弟肥田満康らが長森城に入ると、頼益は将軍義満の命により、和泉の陣から帰国してこれを討った。長森城の合戦である。

 長森城は現在の長森神社のある所といわれるが、遺構はみられない。(『日本城郭大系』第九巻 p.409 新人物往来社より)

 

金華山頂上にある岐阜城天守閣

 徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康は岐阜城を廃して加納に城を築きました。徳川譜代の奥平信昌が入城して、美濃は幕府直轄領へと編入されました。その後加納藩主となった大名は以下のとうりです。

藩主名 存位期間 石高 備考
奥平信昌 1601年〜1602年 10万石 京都所司代
奥平忠政 1602年〜1614年 10万石 松平姓を授かる
奥平忠隆 1614年〜1623年 10万石 嗣子なく断絶
大久保忠職ただもと 1623年〜1639年 5万石 明石城7万石へ転封
戸田光重 1639年〜1668年 7万石 明石から転封
戸田光永 1668年〜1705年 7万石  
戸田光熙みつひろ 1705年〜1711年 7万石 淀城7万石へ転封
安藤信友 1711年〜1732年 6万5千石 老中 備中高松城から転封
安藤信尹のぶただ 1732年〜1755年 6万5千石  
安藤信成のぶひら 1755年〜1756年 5万石 磐城平へ転封
永井直陳なおのぶ 1756年〜1762年 3万2千石 武蔵岩槻から転封
永井尚備なおみつ 1762年〜1759年 3万2千石  
永井尚旧なおひさ 1769年〜1790年 3万2千石  
永井尚佐なおすけ 1790年〜1839年 3万2千石 若年寄
永井尚典なおのり 1839年〜1862年 3万2千石  
永井尚服なおこと 1862年〜1869年 3万2千石 寺社奉行・若年寄・会計奉行

 長森は、江戸時代加納藩(細畑・切通・蔵前・高田・北一色・岩戸・前一色・野一色・水海道・岩地)と名古屋藩(芋島・東中島)の両藩に分けられていました。名古屋藩領の芋島・東中島村は以来明治まで変わりませんでしたが、加納藩は、めまぐるしく藩主が交代しております。

 宝暦六年(1756年)藩主安藤信尹(のぶただ)は農民の強訴を契機とした家中騒動のため隠居、減封改易されました。残る五万石をついだ信成(のぶひら)は、陸奥国磐城平(いわきたいら)藩に移されました。信成は、後幕府要職の寺社奉行・若年寄につき、寛政五年(1793年)老中にまで登りつめました。その功績により、享和三年(1803年)十二月美濃厚見郡・方県郡・羽栗郡・本巣郡のうち一万八千石を加増されました。

 安藤家は、旧領を復帰させられたとはいえ奥州と美濃は離れていたので、支配に配慮して陣屋を厚見郡切通村に設け、郡奉行・代官・与力・同心など二十二人を詰めさせ、地元村役人に強い権限を持たせて地方を支配させました。惣元取・組元取・郷目付を村政の主軸とし、領内を東方と西方に分けて支配しました。その切通陣屋も今は碑を残しているに過ぎません。いま中山道から右へ「切通観音」の標示に従って小道を入ると切通観音の地内に「切通陣屋跡」の石碑があります。明治維新後約65年間、現在の名鉄切通駅東100メートルの地点から中山道まで広い屋敷がありましたが、その屋敷は今や存在せず、ただ観音堂の片隅に碑が残るのみであります。

切通陣屋跡の標札

切通観音 この辺りが切通陣屋の惣門になります。

毎年8月10日には、切通観音で縁日が催されます。切通観音への中山道からの入り口です。

二年前(平成25年)に新調された提燈群。

大人の墨絵・子どもたちの作品が行燈になって飾られています。

千日詣りの縁日にお参りすると、千日参ったのと同じご利益があると言われています。

全部で八十八個の提燈が飾られます。

切通観音は、源を辿れば、美濃の国土岐氏の居城長森城があった場所です。

浄慶寺西面中山道側にかつて立てられた高札(実物)。

その原文と書き下し文です。干支(えと)で戊辰(ぼしん。つちのえたつ)正月とあるので、慶応4年・明治元年(1868年)に東山道(中山道)鎮撫総督(とうさんどうちんぶそうとく)官軍の司令部から出された高札です。幕府側のこれまでの苛政(かせい)・・・むごい政治を非難すると共に、民衆の心を掴もうとした明治新政府の動性をうかがい知ることのできる資料です。

新しく往来の人のために設けられた藤棚(岐阜信用金庫切通支店前)

新たにつくられた中山道の標石(岐阜信用金庫切通支店前)

 かつて切通陣屋の座敷を飾った絵の描かれた杉戸が、浄慶寺に残されています。杉戸枠を外し木組のへりを見ると、江戸でつくられた旨を示す記述がありました。

 

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