仏事のイロハ

 

 



浄土真宗らしいお墓の建て方

ふだんお寺に顔を見せたことのない方から突然「お墓を建てたので、性根(しょうね)を入れて下さい」と、電話で依頼されることがあります。さっそく墓地へ出かけていくと、これがやたらと凝っていて、中心となる石碑の横には石塔が建ち、手前にはお地蔵さん、その隣には法名を記した石板には「霊標」と刻まれ、おまけに石碑の向きが入り口から見て真横になっています。「よくもまあ、これだけこだわった墓を造ったものだ」とあきれると同時に、なんだか心寂しくなってしまいました。そこで、真宗門徒がお墓を建てる時の注意点をいくつか述べてみましょう。

@建てようと思ったら、まずお寺に相談すること                             み教えにそぐわないお墓や、余計なものを造っては台なしです。それに、信頼できる石材店を紹介してくれます。

A墓相に惑わされずに                                             お墓の向きによって幸不幸が生じるわけではありません。また場所も同様です。向きや場所にこだわると、先の例のように石碑の側面を拝する位置になったりしかねず、いかにも不自然です。

B墓石の形もこだわらずに                                          形によって良し悪しがあるわけではありません。石碑の上面を三角形にしたり、屋根や宝珠をつける必要もありません。

C石碑(軸石)の正面には「南無阿弥陀仏」のお名号を刻みましょう                 ご先祖を偲ぶ上でも、人生無常の理(ことわり)をかみしめる上でも、つねに私の依り所となり、礼拝の対象となるのは阿弥陀如来だからです。この場合、家名は台石に刻めばよいでしょう。また、お名号以外の場合は、携帯用のご本尊を安置してお参りください。他に『阿弥陀経』の一節「倶会一処」と石碑に刻む場合もあります。

D観音像、地蔵像、宝塔などは建てない                                  帰依する仏さまは阿弥陀如来一仏だからです。

E「吉日」の文字は刻まない                                          日の吉凶や建てる時期にこだわりません。

F「霊標」とせず「法名碑」とする                                       法名を記す石板は「霊標」とは言わない。このほか「お性根を入れる(性入れ)」・「お性根を抜く(性抜き)」は浄土真宗では、ありません。お墓を建ててお参りをする時は「建碑式」。お骨を納めるときは、「納骨式」と言います。

            

             南無阿弥陀仏の石碑          倶会一処の石碑

先祖の霊を慰めるの?                                         お彼岸やお盆の時期になると、これまでひっそりとしていた墓地に参拝者がどっと訪れ、あちこちで手を合わせる光景が見られます。「彼岸」や「お盆」という仏教行事を通してではありますが、さめた現代人でもさすがに故人を偲び、ご先祖に感謝する心だけは失っていないようです。ところで、こうした墓参光景が例年ニュースで報道されますが、その紹介の仕方が決まったように「(墓前で)先祖の霊を慰めていました」となります。故人の好きだったお酒や食べ物などを供え、故人の霊に手を合わせて慰めることがお墓参りだと思っているとしたら、それは少し筋が違います。はっきり言って、お墓に先祖の霊が宿っているのではありません。固定的実体的な霊をそこに見ようとするのは、他ならぬ私自身の執着心がなせるわざで、実際的には、故人はお墓の中に眠っているわけではなく、また遺骨が故人なのではなく、すでにお浄土へ還られています。そして、お浄土から私たちに向け、如来さまの真実を知らせんがためにはたらいて下さっているのです。                        それでは、お墓は何のためにあるのでしょうか。お墓は、先祖あるいは故人が必要とするからあるのではなく、私たちが先祖、故人を敬い讃えたいと思うから建てるのです。さらに言えば、かけがえのない命を私に伝えてくださったご先祖に感謝しつつ「その命を精一杯輝かせて生きてくれ」という私へのご先祖の願いを聞く場でもあります。また、遺骨を前にして諸行無常を味わうのもお墓でしょう。   諸行無常の理をかみしめ、先祖の願を聞きながら、生死を越えて確かな依り所となるお念仏の教を味わう場、それがお墓ではないでしょうか。