前畑ガンバレ

お寺のご門徒さんにベルリンオリンピック金メダリストの兵藤秀子さんがいらっしゃいます。蔵前の歯科医兵藤正臣さんのお母様です。平成7年2月24日兵藤秀子さんは、享年80歳で御往生されましたが、今もなお私たちの記憶に残る日本水泳界の第一人者でした。お定飯(月忌参り)に行きますと、大きな手のひらにお念珠をかけて、一緒にお参りされ、気さくにお話してくださいました。兵藤秀子さんは、大正3年(1914年)和歌山県の橋本市に生まれました。旧姓はあの前畑秀子さんです。小学校5年生の時、大阪の浜寺プールで、50メートル平泳ぎ小学生女子日本新記録を出しました。昭和11年(1936年)第11回ベルリンオリンピック大会で女子200メートル平泳ぎ、金メダルを獲得しました。戦後も地元長森の子どもたちにも近くの境川、入戸(いりのと)の水門で水泳を指導して頂いたこともありました。前畑秀子さんを偲び、秀子さんの随筆の中から僅かですが、オリンピックの様子を紹介させて頂きました。

 

あの瞬間

 

わたしは、もう45年以上も、1枚のレコードをだいじにして持っています。そのレコードは、わたしの人生のもっともすばらしかった瞬間を伝えてくれる、たいせつなたいせつな宝物です。ときどき、わたしはひとりで、そのレコードをかけて聞いてみることがあります。レコードをかけてみると、全体にふっている雨が風にあおられているような、ザアザアというさわがしい音がします。でもそれは無理もありません。レコードの音は、はるかなヨーロッパにあるドイツのベルリンから、地球の半周近い隔たりを伝わって日本に送られてきた音なのですから・・・。またレコードは、ゆれている波のように、音が強くなったり弱くなったりします。これも、音波が遠い遠い空中を伝わってきたせいでしょう。

しかし、その雑音や波をかきわけるようにして、やがてしかっりした、そのくせ興奮した男の人の声が聞こえ出します。「・・・前畑わずかにリード、わずかにリード、125、125、125、わずかにリード、わずかにリード。ゲネンゲル、強豪ゲネンゲルつづいております。地元ドイツの応援はさかんにゲネンゲルに声援をおくっております・・・」 これはNHKの河西アナウンサーが、昭和11年にドイツのベルリンでおこなわれた第11回オリンピック大会のもようを実況放送しているのです。放送しているのは、水泳の女子平泳ぎ200メートル決勝です。河西アナウンサーの声が、雑音をはねのけるように、ますます高くなっていきます。「・・・前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!ガンバレ!ガンバレ!あと40、あと40、あと40、あと40。前畑リード前畑リード、ゲネンゲルも出ております。ほんのわずか、ほんのわずかなにリード。ガンバレ!前畑ガンバレ!・・・・・・」熱戦のようすが、手にとるように伝わってきます。この決勝戦がおこなわれたのは、ベルリン時間の午後3時40分です。日本は真夜中になっていました。

でも日本じゅうの人たちが、ラジオにかじりついて河西アナウンサーの実況放送に聞き入っていたという話です。「ガンバレ、前畑!ガンバレ、日本!」手に汗をにぎりながら、心の中で河西アナウンサーと同じようにさけんでいたということを聞きました。河西アナウンサーの声にもますます熱が加わります。「・・・前畑ガンバレ。前畑ガンバレ。リード、リード。あと5メートル、あと5メートル・・・」レコードのその声を聞いているうちに、わたしも血わき肉おどる感じがして、しだいしだいに興奮してしまいます。といいますのは、河西アナウンサーが「前畑、ガンバレ」といっている前畑は、ほかならぬ22歳のときのこのわたし自身だったからです。わたしは結婚して兵藤秀子となるまで、前畑秀子といっていました。

 

ゲネンゲル選手と記念撮影

ベルリンオリンピック女子200メートル平泳ぎ決勝で、ドイツのゲネンゲル選手とのデットヒート

椙山女学校に入学した頃(15歳)

レコードを聞いていると時々、「ああ、あのゲネンゲルさんとはげしい接戦を演じたのは、ほんとにこのわたしだったのかしら」と思ってしまうことがあります。なんだか、わたしとはまったく関係のない人がプールを泳いでいるような気がしてならないのです。でもアナウンスを聞いているうちに、「ああ、やっぱり私なのだ」という気になってきます。「・・・あと4メートル、3メートル、2メートル、あっ前畑リード、勝った!勝った!勝った!勝った!勝った!勝った!前畑が勝った!前畑が勝った!・・・」アナウンスは、すっかり興奮しきった声でまだつづきます。「・・・前畑が勝った!前畑が勝ちました!前畑が勝ちました!前畑が勝ちました!前畑の優勝です。前畑の優勝です。ほんのわずか、ほんのわずかでありましたが、前畑優勝。前畑日章旗をあげました。前畑さんありがとう!ありがとう!優勝しました、女子はじめての大日章旗があがるのです。」いったい何度「勝った」ということをいってくださったでしょう?

するとわたしの心は、いつのまにか遠いベルリンに向かってとんでいくのです。そうして、オリンピックプールで全力をつくしてたたかった22歳のわたしに、すうっともどってしまうのです。

あのときゴールにはいった瞬間、わたしは自分が勝ったとは知りませんでした。ほうっと苦しい息をして、となりのコースを見ると、ゲネンゲルさんがロープにのしあがるようにして、ハアハアと苦しい息をしているところでした。わたしは、負けたなあと思いました。すると、全身の力がぬけて、さあっとプールの底に沈んでしまいました。浮かびあがっても、こんどはプールから自分ひとりであがることができません。ようやく、上から引き上げてもらいました。そのとき、スタンドから「日本バンザイ」という声が聞こえてきました。「もしかして勝ったのかな?」一瞬そう思いましたが、まだわかりません。わたしは、逃げるようにしてひかえ室に帰りました。そのうちに、結果が発表されました。「ただ今の女子200メートル平泳ぎは、日本の前畑秀子が優勝です」そういう放送です。「もう一度いってください。もう一度いってください。」 わたしは、半信半疑のままじっと耳をこらしてそう思いました。するとそこへ、ほかの選手たちがかけつけてくれました。「おめでとう。前畑さん、おめでとう。」 もう、まちがいはありません。そう思ったとたん、どっと涙があふれ出るのを感じました。

表彰式になりました。「泣くんじゃないよ。自分の目で、あがっていく日章旗をしっかり見てくるんだよ。」団長さんがおっしゃいました。「はい、けっして泣きません。」わたしは、にっこり笑って答えました。名前を呼ばれて、表彰台の一番高いところにのぼりました。二位はドイツのゲネンゲルさん、三位はデンマークのゼーレンゼンさんです。「近代オリンピックの生みの親」といわれるクーベルタン男爵から、桐の箱にはいった金メダルをいただきました。ものすごく大きく、りっぱに見えました。「オメデトウ。ヨク、ヤリマシタネ」

 

ロサンジェルス五輪女子200メートル平泳ぎでは、力泳むなしく2位に終わった。

プールではたくさんの子どもたちに水泳を指導された。

昭和11年ベルリン五輪女子200メートル平泳ぎで念願の金メダルを獲得。涙がとめどもなく流れた。

『大勢の人に支えられた人生に感謝して』

昭和59年に私はロサンジェルスオリンピックを見学に行くつもりでした。昭和7年のロス五輪に出場し二着になっているので、記念に行ってみようと前から決めていたのです。ところが、58年に私は倒れました。脳溢血で一時は再起不能といわれました。私は必死にリハビリに取り組み、なんとかロス五輪に間に合わせようとしたのですが、残念ながらロスに行けませんでした。このとき、日本中の期待を集めたのが、水泳では長崎宏子選手でした。同じ平泳ぎということもあって、私も注目していました。ソ連の不参加もあり、出場選手中最高の記録を持っている長崎選手は、金メダルの有力候補でした。私は長崎さんとは、それまでに2〜3度会っています。長崎さんは私の自伝『前畑ガンバレ!』の愛読者で、「これだけは水着といっしょにロスへ持っていきます」と言っていました。そのたびに私は、「実力通りに泳げば勝てるのだから自信をもってね。それと風邪には気をつけてね。」とアドバイスしたものです。私は、長崎さんがロスのプールのメインポールに日章旗を揚げてくれると信じていました。結局長崎さんは勝てませんでした。200メートルで6位、100メートルでは4位に終わりました。日本では「長崎選手は金メダルのプレッシャーに負けた」と報じられました。確かにそうかもしれません。自分の最高タイムを出して敗れたなら、相手が強かったということで納得できますが、彼女の場合はそうではなかったのが、私には大変残念なことでした。

長崎さんの例を持ち出すまでもなく、オリンピックで勝つのはひじょうに大変なことです。私の場合も、前回のロスで銀メダルをとっていたので、昭和11年のベルリン大会では金メダルの期待が大きく、「負けたら生きて帰れない」というつもりでレースにのぞみました。スタート前には日本から送られてきたお守りを飲んで「どうか勝たしてください」と祈りました。

ところが、スタート台に上がるとそんな雑念はいっさい消えました。「私は誰よりも練習してきたんだから負けるはずがない。」そして、「勝ち負けはともかく、自分で悔いのないレースをしよう」という心境になっていました。最後のターンをして、ゴールまでの50メートルはゲネンゲル選手とデッドヒートになったわけですが、私のとなりで彼女が泳いでいることなど忘れていました。自分ひとりだけが大歓声の中を泳いでいるような感じでした。もし、私の金メダルがいつまでもみなさんから讃えられるとしたら、それはゲネンゲル選手に勝ったからではなく、自分に勝ったからでしょう。私は今でも後輩たちに「他人に勝つよりも自分に勝つことのほうがむずかしい」と説いています。私は根性という言葉は嫌いですが、自分の目的を達成するための努力は必要です。それを根性と呼ぶなら、それでもかまいません。私は、おそらく死ぬまで水泳をやめないでしょう。たとえ自分はプールに入ることができなくなっても、プールサイドからみんなを励まし続けたいと思います。

私の人生のささやかなモットーは、自分で決めたことは真正面からぶつかって行って、納得するまでやり通すことです。そうしなければ悔いが残るし、なにごとも成功しない。私はそう思います。わが半生を振り返ってみると、やはりベルリン大会の金メダルが、私の人生のハイライトでした。ですから、苦しいとき、悲しいとき、かならず立ち戻るのは半世紀前のベルリン大会です。たとえば、主人を突然失い、女手ひとつで子どもを育てなければならなくなったとき、脳溢血で倒れ、苦しいリハビリの壁に直面したとき、私を支えたのはやはり金メダルでした。「あの栄光をつかむために、秀子おまえはどんな苦しい練習にも耐えてきたじゃないか」こう言いきかせると、再び勇気がわいてきます。そして、どこからともなく「前畑ガンバレ!」の声が聞こえてきました。

「私には、苦しさや困難を克服するたびに喜んでくれる大勢の人がいる。みなさんに喜んでもらうことこそが私の喜びだ」

私は水泳を通じてそう教えられました。私は多くの人たちの愛に支えられた「前畑秀子の人生」に心から感謝して、今後も精一杯生かさせて頂きたいと思います。

昭和53年アメリカフロリダ州インターナショナル水泳殿堂入り。名誉ある手形を押す。

ベルリン五輪後、小島一枝さん(右)と橋本に凱旋。

ベルリン五輪の宿敵ゲネンゲルさんと再会。二人で50メートルを泳ぎ、積もる話に花が咲いた。