聴聞の姿
写真集(その26)
2月の
常例法座
は、住職がお取次ぎしました。『拝読 浄土真宗のみ教え』から「人生そのものの問い」からお話しさせて頂きました。2月15日は、お釈迦様が入滅された日です。涅槃会(ねはんえ)法要が営まれます。入滅とは、仏教において悟りをひらかれた方が亡くなることを指します。お釈迦さまは入滅の際、沙羅双樹の木の下で、頭を北にして西を向き、右脇を下にして臥したお姿で、その周囲で弟子や菩薩、多くの鳥・獣・虫たちが嘆き悲しむ様子が、釈迦涅槃図に描かれています。お釈迦さまは、最期の言葉として、以下のように述べられたと言われています。「わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。 わたしの亡き後は、わたしの説き遺のこした法がおまえたちの師である。」と。そして自灯明・法灯明の教えを残されました。灯明の原語は「ディーパ(dīpa)」であり、その同音異義語に洲/島があります。どちらにしても、たよりとすべきものという意味でになります。そのように自灯明・法灯明に関係して、御開山の和讃には「無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏(せんばつ)なり 罪障おもしとなげかざれ」(正像末和讃)と述べられています。「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、かならず煩悩の闇に惑う私の大いなる灯火となることでしょう。この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」この問いに確かな答えが与えられるのではないでしょうか。今日取り上げました「人生そのものの問い」に、お釈迦さまの残された仏法、そしてお念仏のみ教えが、生かされる指針になるのです。
以下の行事が中止になりました。
*3月28日(土)
春季永代経法要
午前9時半・午後1時半 内藤昭文師(大分教区中津組 法行寺御住職)
*4月8日(木)
花まつり
午後1時〜午後4時頃まで お釈迦の誕生を祝う仏教行事です。 浄慶寺山門前にて行います。
*4月10日(金)
大谷本廟参拝寺院観光(滋賀県)
大谷本廟無量寿堂への分骨は、この地で親鸞聖人が荼毘にふされ、御廟堂が建てられたことに由来します。以前に納骨された方々もこの機会に参拝されませんか。また納骨の有る無しにかかわらず、どなたでもご参加頂けます。本廟納骨後、滋賀県にある石山寺・三井寺を拝観する予定です。
11月28日(土)
高田篤敬
先生
(中川南組蓮教寺御住職)
をお迎えして、
報恩講
が営まれました。今年は
、
コロナの影響で一座二席のみのご法座になり、お斎も自粛することになってしまいました。
九十年にわたる親鸞聖人の御生涯の御苦労を偲び、ご教化を通じてお念仏に出遇う事ができたこと、そしてその御恩に感謝する大切な法要です。
12月11日、今年最後の
「お経を習いましょう」
でした。今年は。本願寺出版から出ています『正信偈』を使って写経をしました。本願寺出版から出されている『正信偈』を写経しながら、各ページには、語句の説明・それぞれの解説が解りやすく紹介されています。皆が目を通して、写経しながら自然と『正信偈』の内容も理解されたのではないかと思います。来年度からは、『阿弥陀経』になります。
年一回の火災訓練が、義務づけられています。消防署に訓練実施計画書を提出し、常例法座の当日、「119番通報・火災訓練の開始を告げ」避難誘導があり、訓練用の消火器でそれぞれに実地訓練しました。後日消火器を返却し、訓練実施の報告書を提出しました。
今年最後の
常例法座
です。前座に若院、後席に住職がお取次ぎしました。
除夜の鐘
の後、
修正会
が仏間にて執り行われました。例年に比べて参詣者が少なかったですね。
令和3年3月27日(土) 永代経法要前に。
合祀墓(永代供養合同墓)完成報告法要
が勤修されました。
近年、浄慶寺のご門徒より「私の代以降では、お墓を護持することができない」「浄慶寺で埋葬できるようなお墓はないだろうか」などといったご相談を受けることが多くありました。昨今、私たちの生活形式や家族形態の変化により、皆様の墓地に対するあり方にも変化が見られるようです。このような時代背景もあり、皆様の墓地に対する「不安」や「墓終い」に関するお悩みに、お寺として向き合い建立することとなりました。
また、合同埋葬墓を通じて、当寺とご縁のある皆様に心豊かに生きることのできる拠り所となることを願っております
。
春季永代経
・仏婦追悼
法要
夏木一丸先生
(滋賀教区長浜組 浄願寺御住職)
コロナ対策のため、密にならないよう・マスク着用・体温測定・消毒・換気に気を付けながらのお参りでした。
コロナの影響で、なかなか開催できなかった常例が、開かれました。6/13(日)の
常例法座
は、笠松別院の
箕浦良信先生
をお招きしました。東西本願寺分派の歴史について、お話し頂きました。西本願寺・東本願寺とは、宗派の名前は聞きますが、その分かれるに至った経緯や、美濃の国(岐阜県)の当時の本願寺寺院の状況など、ご紹介頂きました。
毎月第二金曜日午後3時から庫裏仏間で開かれています
『お経を習いましょう』
です。お経の練習のあと『阿弥陀経』の写経に取り組んでいます。
将来にも仏縁を結んでもらえる事、願ってます。
久し振りに
『お経を習いましょう』の
集合写真撮りました。
11月27日(土)・28日(日)と
報恩講
が勤修されました。
27日(土)には、
葛野洋明先生
(龍谷大学実践真宗学教授)
を御講師にお招きいたしました。「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に住す。 このゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生またさだまるなり。」(親鸞聖人御消息)
28日は、
住職・若院
のお取次ぎでした。九十年にわたる親鸞聖人の御生涯の御苦労を偲び、ご教化を通じてお念仏に出遇う事ができたこと、そしてその御恩に感謝する大切な法要です。
12月13日(月)
には、常例法座
が勤まり、
高田篤敬先生
(中川南組蓮教寺御住職)
にご法話を頂きました。
除夜会
修正会
3月26日(土)
鎌田宗雲先生
(滋賀県愛荘町報恩寺住職)をご講師にお迎えして、
春季永代経法要・仏婦追弔会
が勤まりました。「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
」(高僧和讃)
をご讃題に始まりました。お寺の後継者につきましても、綿々と受け継がれて行くことは幸いですね。本日は、仏教婦人会々員物故者追弔法要も合わせて勤まりました。私もお葬儀で親しくして頂いた方々とのお別れには、悲しくも淋しさで一杯です。先日も「先ほど主人が、参らせてもらいました。」とのご連絡を受け、「
参らせてもらいました
」との言葉に、平生のお聴聞の姿が偲ばれました。悲しきもありましたが、「往生
浄土
」のお言葉使いに、涙の中にもなだめを頂く思いでございました。
3月27日(日)
「
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(正像末和讃)」をご讃題に
、森下広大先生
(
岐阜教区飛弾組眞光寺
)をお迎えしての
春季永代経法要・仏婦追弔会
のご縁を頂きました。お念仏するからこの私にご本願が届くのか?本来は、逆であります。平生、阿弥陀様のからの願いをお聞かせに預かっております。今のあなたを救わんとする阿弥陀仏の願いであって、「あなたを救いの目当てとする」という先働きの方向性なのです。憶念弥陀仏本願・・・阿弥陀仏に更には憶念されてる今の私に気づかされる時、有り難うございますと受領される、報恩感謝のお念仏なのです。
法座を通常どうりに開催する事が出来ずに、午後からの2日間に分けて分散開催する事になりました。
5
月21日(土)
富田祐尊
先生
(
岐阜教区 西濃南組浄円寺御住職
)をご講師にお迎えして、親鸞聖人
の御誕生をお祝いする
降誕会法要
が勤まりました。「
安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし
」『浄土和讃 讃弥陀偈讃』。私たちは、祖師聖人のみ跡を慕い、同じ念仏の道を歩まさせて頂いています。その道の行先は浄土であると教えられてきました。阿弥陀経には、「倶会一処」と述べられていますが、それは先の者も、後に続く者にも、約束して会える世界であります。浄土に往生した者は、煩悩の束縛から解き放たれて、悟りの身の仏にならせていただきます。
仏の旧字は、「佛」です。「人にあらず」
という意味になりまね。世俗的な
好き嫌いを離れて、怨親平等の仏になります。安楽の浄土にいたるひとは、お釈迦様の如くに、後の者を導く働きにつかれるのです。
6月12
日(日)
富田祐尊
先生
(
岐阜教区 西濃南組浄円寺御住職
)をご講師にお迎えして、
常例法座
が勤まりました。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもっと、そらごと、たはごと、まことあることなきに、念仏のみぞまことにおはします。」『歎異抄』をご讃題に御法話を頂戴いたしました。「煩悩具足の凡夫」・「
火宅無常の世界
」とは、どういう意味なのかをお話し頂きました。いつもの事ながら、丁寧に、法味豊かに、ユーモアを交えながらお話し頂く、富田先生に感謝です。色んな事を教えて頂いた、ご法座でした。
富田祐尊
先生
を囲んで記念写真です。
第
52回
『
小
学生のお経を習いましょう
』
が、コロナで中断されていて3年ぶりに開催されました。
お経の練習・作法・お話と無事つとまりました。参加の皆さんありがとうございます。
9月24日(土)
秋季永代経法要
が、
葛野洋明先生
(龍谷大学実践真宗学教授)
をお招きして、勤修されました。「かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに。」『行巻』より。泥のないところには蓮の華は、咲きません。蓮華とは仏の覚り、仏の真実の言葉であり、泥とはわたくしたちの煩悩に譬えられるものです。泥のようにつきまとう、煩悩は囚われないようにしても、ついてまわります。しかし、仏の覚りは、どんな世界であっても決して染まることがありません。しかしながら、蓮華は汚れて底の見えない濁った泥の中にしか咲かないのですね。泥が無くなれば蓮の華はとたんに枯れてしまいます。それは、煩悩のあるところににしか覚りはないということです。さらに、親鸞聖人が明らかにされた「念仏往生」のお救いに、「同一念仏無別道故」というお言葉がございます。日々の暮らしの中で、お念仏に包まれて歩む道は、共に手を取り合う兄弟姉妹のようです。同じお念仏の道を歩まさせて頂いておりますこと、本当にありがたいことで事であります。
平素ならば午前・午後の二座のお参りなのですが、コロナ禍のため、午後からの一座二席になりました。
10月13日(木)
常例法座
が、
高田篤敬
先生
(中川南組蓮教寺御住職)
を
お招きして、勤とまりました。
「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、無量寿如来に帰命し、不可思議光に南无したてまつる。」『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の『行文類』 より。
親鸞聖人が、比叡山にのぼられ19歳になられた頃、河内国(大阪府)、磯長の叡福寺にある聖徳太子のお墓に詣でられました。そこで「汝が命根(みょうこん)は応(まさ)に十余歳なるべし。命終りて速やかに清浄土に入らん(お前の命はあと十年余りである。そのいのち終われば、お前は速やかに浄らかな土へ入るであろう)」との夢を見ます。その後、厳しい修業の年月を費やされました。しかし、そのかいもなくかえって悩みや迷いなど煩悩の束縛から解き放たれることなく、悟ることができません。
修業者だけでなく、誰でもが救われる道はないものかと苦しみ悩まれた聖人は、29才の時遂に比叡の山を下り、京都の六角堂に参籠(さんろう)されます。100日間の参籠の終わり頃の95日目の暁に、意識のもうろうとしていたときに、東山のふもとの吉水に『法然』という人がいる。そこに赴いてその法を聞け」という夢のお告げがあり、吉水に馳せ参じられました。それ以後はひたすらに「法然」さまの所に通い続けられたようです。
念仏は間違った教えだとして、念仏停止(ちょうじ)・ご流罪への悲しみに耐えながら、阿弥陀仏救済の教えを伝えるため書物として残されました。それが、『教行信証』という著述です。『教行信証』は常陸においてほぼ完成していたと思われ、その中で親鸞聖人が「わが元仁元年」と明記された年、元仁元(1224)年は『教行信証』の草稿が完成した年として、後に浄土真宗の「立教開宗」の年とされています。身近なお話を交えながらも、お取次ぎ頂きました。
大人のお経を習いましょう(11期
)
が始まりました。
今回で、発足11年目を迎えました。毎月第二金曜日午後3時から庫裏仏間で開かれます。現在
、お経
の練習・写経・正信偈の内容について学んでいます。
11月26日(土)当山の
報恩講
が勤まりました。初日のご講師に、元中央仏教学院の御講師をされていた
植田真豊
先生をお招きいたしました。
11月27日(日) 二日目の
報恩講の
御講師は、
森下広大先生
(
岐阜教区飛弾組眞光寺
)です。
令和4年最後の行事、除夜の鐘。それに続く修正会が始まります。
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