聴聞の姿

写真集(その19)

 

 

平成25年度2月の常例法座牧野光博師((岐阜教区黒野組大性寺))をお招きしました。 「しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。」を御講題に御法話 を頂きました。

 

2月20日(水)華陽組僧侶寺族研修会が開催されました。この日の御講師には、滋賀県彦根市報恩寺 ご住職で中央仏教学院講師を務められている鎌田宗雲師をお招きいたしました。この度は、「御絵伝について語る」をテーマに親鸞聖人の御一生を描いた御絵伝の解説とその背景を学ばせて頂きました。初めてお聞かせ頂くことも多く、本当に有意義な研修会でした。

3月23日(土)春季永代経法要並びに浄慶寺仏教婦人会追悼法要が勤まりました。この日の御講師に、大分県中津市法行寺御住職の内藤昭文先生が大変お忙しい中、お越し頂きました。

「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」 『浄土和讃』を御讃題にされて、御法話いただきました。博学の先生ですが、誰にでもわかりやすく、丁寧にお話をしていただきました。内藤先生が学生時代にある先生からよくお聞かせいただいた、松尾芭蕉翁の残された辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」について、私たちは生まれてきてそれぞれに人生を歩んでいます。しかしもう臨終の一念を迎えてばならないが、それでもまだ色んな所に行きたかった夢は思いどうりにならなかった。私たちは、この娑婆(執着)を巡っている。この句は辞世の句であって、辞世の句ではない。毎日毎日が一期一会でありますと、今日一日を大切に、父母からたまわったいのちを生かされていることに感謝をもって、お念仏申させていただきましょうと、お取次ぎいただきました。



 

46日(土)初参式(ほとけの子のつどい)をお勤めしました。

子どもさんが仏の子として育ち、これからの人生を仏さまのお慈悲に包まれて生きていけるよう、人生の出発にあたり、その誕生を仏さまにご報告する式です。

すくすくと育ち、いただいた命を大切にするよう願っています。

4月8日(月)花まつり浄慶寺山門前にて行いました。お釈迦の誕生を祝う仏教行事です。

お釈迦さまの誕生仏に甘茶をかけてお祝いしました。

このキルティングは、この花祭りのために、婦人会長さんの手作りです。

お釈迦様の誕生仏に真摯に合掌する中学生に、感動しました。

お釈迦様のお父さんは、スッドダーナ王と言います。そのお妃のマーヤさまは、ある夜、不思議な夢を見られました。空から白い象が降りてきて、右わき腹に入る夢でした。それは、お釈迦様を宿したマーヤ夫人ご懐妊の象徴でした。そういういわれで、花祭りと白い像は、深い関係があります。

 

おばあちゃんのお参りもありがたいです。

婦人会の皆さんが、時間交代制で皆さんを迎えてくれました。

長森南小学校の皆さんもお参りしてくれました。

中国上海市から、訪れた若いお嬢さんも甘茶をかけました。

410日(水)常例法座高田篤敬師(岐阜教区中川南組蓮教寺)を御講師にお勤めされました。門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という有名な句があります。先生は、めでたいと浮かれている世の人たちに、必ず訪れる死までの、道標のようなもんだと、無常観を説いておられると思っていました。しかし、もとは「門松は冥土の旅の一里塚馬駕籠もなく泊まりやもなし」というのがあるらしく、除夜の鐘をならし、お正月を迎えると、私たちは昨年の業をすべて捨てて(リセットし)、新しくなったように思っています。しかし、生まれてこのかた死を迎えるまで自分の作ってきた業は、自分で背負っていかなければならないのですと、警鐘をならしているのではないかとお話くださいました。 5月18日(土)親鸞聖人の御生誕をお祝いする降誕会法要が勤まりました。富田祐尊師(岐阜教区 西濃南組浄円寺)を御講師にお迎えしました。「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」正信偈から御讃題にお話され、お取次ぎ頂きました。親鸞聖人も降誕され、また阿弥陀如来の如実の教えを説かれるために、釈迦如来も降誕されました。当日は、ワシントン州ホワイトリバー仏教会からテラダさんもお参りに来られ、聴聞されました。ありがたくも楽しい一日でした。

6月13日(木)常例法座阿部信樹師(岐阜教区中川南組慶円寺)をお招きして開かれました。「願以此功徳 (願わくは此の功徳を以て)平等施一切 (平等に一切に施し)同発菩提心 (同じく菩提心を発こして)往生安楽国 (安楽国に往生せん)」を御讃題にお取次ぎ頂きました。『拝読浄土真宗のみ教え』が、同教区池田町正円寺の八幡徹信先生の仏教婦人会の方々へ配布され、それを自宅で読まれた中学3年生の娘さん勝野あかりさんが、感銘されたお話を紹介されました。本願寺新報に記載された記事でもあります。「愚者のよろこび」と「他力本願」は、あかりさんに文字通りこころの灯火をともしました。私のお寺でも親鸞聖人750回大遠忌法要記念にすべての御門徒さんへお配りしました。お月忌や法事の折々に拝読し、みんなでお念仏につつまれた喜びを、現代の御文章ともよべる『拝読浄土真宗のみ教え』を味わっていきたいと思います。 7月2日( 火)布教使実習法話会が、開催されました。これは、本願寺伝道院に在籍する青年僧侶の方々が、100日間に渡って、布教使なる為のきびしい研修を受けます。その中で、地方の寺院に赴き実際に法話をする実習を行います。この度2人の実習生と1人の指導 の御講師が、当山にお越し頂きました。小林洋一師(滋賀教区愛知下組安養寺)は、「十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし、摂取して捨てざれば阿弥陀と名づけたてまつる。」を御讃題にお話頂きました。寺族としては生まれてはいませんが、祖父・父を通じて自分に仏縁を結んでくれたこと。それは、阿弥陀様の「お念仏を喜ぶ人生を送って欲しいと思う」御本願と相通じるものがありますと、ご自身のお念仏に出遇われた体験を伝えてくれました。

2人目の深水謙昭師(安芸教区豊田東組西念寺)は、「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」を御讃題にお話頂きました。私たちの願いは、欲を満たすために自己中心的なものです。それに対して弥陀の御本願は「私を目当てにし、私が救われなければ仏とならない」という、利他のお心です。「私には5歳と2歳になる娘が2人います。家内が、自転車に乗る2歳の娘にかける気遣いの呼びかけは、呼びかけに応えてもらうための声ではなく、安心し母にまかせて自転車に乗ってねの母の声です。」いつで・もどこでも・だれにでも、一子地(いっしじ)の如くに呼びかけられる阿弥陀如来さまの声は、遠い昔から私たちかけられ続けられているのです。お念仏に出遇う人は、むなしい人生を送ることなく、み仏さまと二人づれの人生です。

指導の御講師、鷲尾衛鳳師(兵庫教区神戸湊組宝球寺)は、「如来の作願をたづぬれば、苦悩の有情を捨てずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」 を御讃題にお話頂きました。布教使の研修で宇治にある黄檗宗万福寺を訪ねました。禅堂には三黙の道場といわれるものがあります。僧堂(坐禅・食事・睡眠)、東司(便所)、浴室です。ここでは、話をしてはいけません。そしてできるだけ音させないように行います。そして、修行の合図に用いられる仏具に、木魚まさに魚が玉をくわえた開版(かいばん)がります。打ち鳴らす間隔や回数により、合図をおくります。さて、この玉を魚が飲み込もうとしているのか?それとも吐き出そうとしているのか?・・・・・・・・・実はこの玉は私たちの煩悩をあらわし、魚は、煩悩の玉を吐き出そうとしています。吐き出すことによって、自らの煩悩を断ち切る場が禅堂であります。

それに対して真宗寺院は、聞法の道場と呼ばれています。生老病死等、自分の思い通りにならない現実をそのままに直視し、苦悩をかかえた私たちが如来さまの救いの目当てでありました。阿弥陀如来さまの私たち凡夫救済の方向性は、「ものの逃ぐるをおわえとるなり」、「一度とりて長く捨てざるなり」というは、まさしくこの私にまっしぐらに届いているのです。また、「大悲心をば成就せり」は、如来さまのお心には、ひとごとという考えを一切持つことがありません。阿弥陀さまの願いは、苦悩のただ中にある私たちを放ってはおけないと、私たちの苦悩に寄りそい、その苦悩を抜き取るためでした。聴聞を重ねて、如来さまの御本願の由来を聞いて、お念仏申される日暮に感謝していきたいものです。

 

今年で45回目となる「お経を習いましょう」が、行われました。「正信偈」の草譜・行譜の二種類のよみ方を6日間で覚えてしまいました。お経を練習した後は、お話です。今回は、山姥・くもの糸・ジャータカ物語・王子と四つの門などのお話しました。子供たちは、正直なので退屈な話になると態度に表しますから、題材探しに毎年大変です。(@_@)

9月28日(土)秋季永代経法要並びに浄慶寺仏教婦人報恩講が勤まりました。この日の御講師に、久堀勝敏先生(奈良教区光雲寺住職)をお迎えして、聴聞いたしました。「往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。よそごとのやうに思ふことは、かつはわが身をしらぬことなりと、(御一代聞書171)」御讃題に、お取次ぎいただきました。

全体を通して、大切なご信心についてお話されました。御文章[四帖目第十一通]で蓮如上人は、「南無阿弥陀仏と申すは、いかなる心にて候うや。しかれば、何と弥陀をたのみて、報土往生をばとぐべく候うやらん。これを心得べきようは、まず「南無阿弥陀仏」の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむべし。そもそも、南無阿弥陀仏の体は、すなわちわれら衆生の、後生たすけたまえとたのみもうすこころなり。すなわちたのむ衆生を、阿弥陀如来のよくしろしめして、すでに無上大利の功徳をあたえましますなり。これを衆生に回向したまえるといえるはこのこころなり。されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまう法なるがゆえに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といえるはこのこころなり。これすなわちわれらが往生のさだまりたる、他力の信心なりとは、こころうべきものなり。」とあります。南無阿弥陀仏とは、衆生の「ハイ仰せのままに、おまかせします」の信順の心であります。こちらから「助けてください」と祈願するものではありません。 親鸞聖人は、『末燈鈔』の中で何が真実であるのかわからない末法の世の人たちに、人生の立脚地となる真実を本願という言葉で伝えられました。聖人は、 師匠である法然上人の選択本願のお言葉を大切にされ、それが浄土真宗であるとお示しくださいました。十八願には、悪人正機・他力信行・往生浄土が述べられています。悪人正機とは、本当の私を知ることであり、救いの目的は 罪悪深重の私にあります。他力信行は、本当に生きるということで、信は、救済の因(原因)であり、念仏はその果(結果)です。往生浄土とは、本当の幸せものにしていただくということ。信心の定まるとき往生またさだまるなりです。 ご法話は、ユーモアたっぷりでしたが、内容は大変深いものでした。これからも聴聞を重ねて、つとめて精進させていただきましょう。

10月13日(日)常例法座に岐阜教区中川北組光輪寺ご住職の中島洋晃先生がみえられました。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」歎異抄第1条から御讃題を頂きました。『親鸞聖人お田植えの歌』御伝抄下巻第五段に「五劫思惟の苗代に兆載永劫のしろをして、雑行自力の草をとり、一念帰命の種おろし、念々相続の水ながし、往生の秋になりぬれば、実りを見るこをうれしけれ」をうたを紹介され、参詣者一同唱和させて頂きました。また、浄土真宗のみ教えは、すなわちAKB48・・・・阿弥陀如来(A)の救済(K)による佛(B)と成らせて頂く48願(48)のみ教えと、ユーモアも交え楽しく拝聴させて頂きました。ありがとうございました。 10月19日(土)龍谷大学実践真宗学大学院生による法話会が開催されました。この日の法話は、前席で石丸恒聞さん(実践3回生長崎教区諫早組善定寺)・森下広大さん(実践卒業生岐阜教区飛騨組真光寺)、後席で佐藤慶樹さん(実践3回生福岡教区上下組万徳寺)・田中至道さん(実践3回生岐阜教区華陽組浄慶寺)の4人が、はつらつとして元気に、自分の経験を交えながらお話されました。法座が終わっても反省会もあり、真摯な取り組みが垣間見られました。お取次ぎすることは大変です。でも経験と研鑽を積み将来は、各地で活躍される貴重な人材になることでしょう。頑張ってください。

この日の法話会で、若い布教使さんのお話を暖かく迎えて聴聞して下さったお同行のみなさん。本当にありがとうございました。

龍谷大学学部生3人も京都から勉強のため聴聞に来られました。

平成25年11月23日(土)・24日(日)の両日、当山の報恩講が勤まりました。 土曜日の御座には、中央仏教学院御講師の植田真豊先生をお迎えして、聴聞の座につかせて頂きました。『教行信証』化身土巻・後序)から「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これに因って、真宗の詮を鈔し、浄土の要をう。ただ仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。もしこの書を見聞せん者、信順を因として疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。」と御讃題に、終始如来 さまの恩徳の深きことを喜ばれました。得べきことを慶びもせぬものは、やはり煩悩の所為(しわざ)であります。「目をつぶっている人を起こすのは難しい。しかし、目をあけて寝ている人起こすのはさらに難しい」ものです 。しかし、如来さまに背を向け寝ているこの私を救いの目当てとして、阿弥陀如来さまは、呼びづめに呼びかけています。難しくもある浄土真宗の教えではありますが、聴聞をかさねてお念仏の日暮をおくらせていただきましょう。

二日目日曜日の御座には、同志社大学・中央仏教学院御講師の鎌田宗雲先生に御法話を頂きました。「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。 」と、ご本典総序の文を引かれました。私たちが今お念仏のみ教えに遭えたのもお釈迦さまえを始め、浄土教を弘められた七高僧がた、親鸞聖人のお陰であります。この度の当山報恩講で新めて仏法との出逢いを慶ばせていただきました。さらに、箱根の笈の平という所で、聖人は文暦元年(1234年)八月、住み慣れた関東よりご帰洛の途中、付き添ってきた関東の弟子の性信房と蓮位房のふたりとここで別れた場所あります。別れを嘆く性信坊らに、「別れ路のさのみ嘆くな法の友  また逢ふ浄土のありと想へば 」とお言葉を残されました。おかげさまと見えない世界、ありがとうと見える世界にも感謝を申しつつ、念仏ひとつで仏になれる道を教えて頂いた宗祖親鸞聖人を偲び、恩に報ずる法要がこの報恩講法要であります。本当に素晴らしいご法縁を結ばされていただきました。

今年最後になる常例法座が12月13日(金)に岐阜教区中川南組蓮教寺さまの高田篤敬先生にお越し頂きました。先生は今年5月幸せの国として有名になったブータンへ旅行に行かれました。Gross National Happiness(国民幸せ総生産)世界一のブータンの人々の暮らしを知らされるにつけ、私たち日本人がかつて大切にしてきた心の宝物を失いつつあることは残念です。しかし、仏法を聞かせていただくと共に、仏法に照らされたわが身の姿を知り、凡夫の私がそのままで救われていくお念仏の道がひらかれています。いつも執着にとらわれている私をめあてし、働き続けて阿弥陀如来のお慈悲のお手まわしに力強さを感じさせていただきました。また日本の「おもてなし」は、先祖から伝えられてきた美しい精神文化です。訪れた人に幸せになってもらいたいという願いが込められています。たとえるなら、音叉(おんさ)という音楽で使う音合わせの器具があります。音叉に共鳴して楽器のチューニングをします。波長を同じくして他に同じ音を伝えます。共鳴は、音だけに限らず私たち人間の喜怒哀楽においても共鳴させてくれる出来事や、人・言葉などもあります。食事も、礼儀作法も・・・寝食すべてに心をこめてお客さんをお迎えします。「おもてなし」は、自分という垣根を下ろし、安心できる場所を提供すると共に私の幸せを他に伝え共鳴していく物なのではないでしょうか?如来さまは、私と常に共鳴してくださる方なのです。 12月31日(火)除夜の鐘それに引き続いて、修正会(元旦会)が勤まりました。紅白歌合戦も終わり、11時45分から除夜の鐘をつき始めました。寒さにも関わらず、たくさん参加していただきありがとうございました。除夜の鐘の後、本堂にて『正信偈』を一緒に読み修正会のお参りをし、阿弥陀如来様に新年のご挨拶をしました。「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる (十方の数限りない世界にいる、念仏の衆生をつぶさにご覧になり、その者たちを光明の中に摂め取って捨てさることがない。それゆえに阿弥陀如来と申し上げるのである。)」との浄土和讃は、昨年私の胸に 深く刻まれた御和讃のひとつでした。当山の親鸞聖人750回大遠忌法要が勤まり、法縁のよろこびを皆さんとご一緒にしたものでした。本年も旧年と相変わらず阿弥陀如来様との、二人ずれの一年が送られるますよう念じております。本年もよろしくお願いたします。
 
 
 
 

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